玉手山周辺が大坂の陣の合戦場であったことは多く語り継がれていますが、江戸時代になってから玉手山安福寺が尾張徳川家から厚い寄進を受けていた事実は知る人ぞ知る、柏原の歴史です。
梅雨が明け、大阪の最高気温が35度を超えた7月22日、安福寺の現地見学会が行われました。近鉄道明寺駅側の石川河川敷で集合し、柏原市立歴史資料館越智勇介学芸員の案内で玉手橋から玉手地区を抜けるコース。
▲遊園地への架け橋として造られた玉手橋(指定文化財)。右奥に玉手山展望台付近が見える
玉手山はかつて国見山と呼ばれ、江戸時代から景勝地でした。明治以降は鉄道開通(当時の河南鉄道)により玉手山遊園地が造られ、玉手橋はその名残のある吊り橋と説明。(当初は昭和3年築とされていましたが、その後の資料により昭和4年の可能性が高くなっています)
丘陵を登ると木陰の安福寺参道へ。6~7世紀の墓である横穴が凝灰岩をくり抜いて掘られています。このあたりは横穴だけでなく古墳時代前期(4世紀)の前方後円墳も見つかっており、直弧文(ちょっこもん)と呼ばれる文様のある石棺には香川県の石が使わてれいます。
▲玉手山横穴にて。この地域独特の地質凝灰岩に掘られた
▲割竹形石棺(玉手山3号墳から見つかった)。香川県の石が使われている
安福寺本堂では、大﨑信宥さんによる講演。1680年、浄土宗の僧侶である珂憶(かおく)の再興があって現在の安福寺があり、さらに珂憶に信頼を寄せていた尾張の徳川光友によって数々の寄進のあった事実が説明されました。(尾張徳川家の寄進は明治まで続いていました)
▲安福寺本堂で大﨑信宥さんによる講演
さらに安福寺では、古代の天皇・貴人の棺に使われていた「夾紵棺」の一部が1958年に発見されています。この夾紵棺は、その巨大さから当時調査で寄宿していた猪熊兼勝氏によって聖徳太子の棺である可能性が高いとも言われています。
▲安福寺所蔵夾紵棺断片(企画展にて)。漆を用いて45層もの絹で固められている
安福寺所蔵夾紵棺(柏原市サイト)
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2016110100057/?doc_id=5647
珂憶は聖徳太子廟とされる太子町叡福寺の尼寺の再興にも尽力しており、安福寺と叡福寺との繋がりも指摘されています。このような背景も尾張徳川家が信頼を寄せた一因とも考えられています。
大﨑さんの講演のあと、普段は一般公開されていない尾張徳川家第2代藩主・徳川光友の墓を見学。珂憶やその後安福寺を継いだ人たちの墓もあります。
▲長い階段を登っていく。現住職大﨑信人さんによる案内。左が越智学芸員
想像していた以上の高い丘を登っていくと、その頂上に徳川光友の墓。ここは玉手山丘陵の最高所にある玉手山古墳群7号墳、前方後円墳でもあるのです。
▲玉手山の頂上に尾張徳川光友廟がある
前方部(方墳)の上に徳川光友らの墓があり、後円部(円墳)には大坂夏の陣両軍戦死者の供養塔が建っています。両者は現在、玉手山公園(遊園地時代からも)の敷地で区切られており、公園内からは把握しづらいようになっています。
もともと古墳であると認識した上で尾張徳川家の墓を建てたことも考えられそうです。
▲この奥に大坂夏の陣両軍戦死者の供養塔があり、本来は前方後円墳としてつながっているが柵で仕切られている
▲(参考)柏原市立歴史資料館企画展にある「安福寺の境内」についての解説
8月19日には、柏原市立歴史資料館で、徳川林政史研究所の藤田英昭さんを講師に「安福寺に眠る殿様ー徳川光友の足跡-」と題する講演も行われました。
▲徳川林政史研究所の藤田英昭さんによる講演
徳川光友は家康の孫で家光の従兄弟(いとこ)にあたる人物。出生から尾張藩の政治、江戸の将軍家の跡継ぎに繋がる人物であったと、資料を用いた解説がありました。光友は側室の子であり、さらに尾張家の跡継ぎにおいても正室に迎えた千代姫(家光の長女)との間に長く子に恵まれなかった家督の背景も。
光友には家督での苦悩が大きくあり、珂憶がよき相談相手だったのではないかとも言われています。玉手山の光友廟は逆修(生前の死後仏事)で、現在も側室の松寿院(勘解由小路)、その子である三男(実際は長男)の松平義昌(梁川藩)とともに眠っています。
▲中央が徳川光友、左が松寿院、右が松平義昌で世話人と考えられる人たちとともに眠っている
柏原市立歴史資料館では8月27日まで、企画展「玉手山安福寺と徳川家 ある奇縁」が行われています。貴重な資料(割愛した玉手山遊園地の資料も)が展示されていますので、この機会にぜひご覧ください。