国道旧170号線の道路拡幅工事に伴う大阪府の発掘調査において、柏原の平野から大県に広がる大県遺跡より多数の遺構や遺物が見つかりました。この度、その展示などを行った「大県遺跡発掘調査速報2013」が平野会館において行われ、見学してきました。
古代のこの地域は、旧大和川(長瀬川・楠根川・玉串川)が高尾山に沿って北へ流れており、その間を東高野街道(現・国道旧170号線)が流れていたという、水路・陸路において大阪と奈良を結ぶ交通の拠点となっていたそうです。
飛鳥時代には河内六寺(智識・山下・大里・三宅・家原・鳥坂)が建立され、そのうちの三宅寺と大里寺が、この大県遺跡のなかに含まれているとのこと。
また、1985年の堅下小学校体育館新設に伴う柏原市による調査では、古墳時代後期から奈良時代頃の鍛冶関連の出土品や韓式系土器(朝鮮半島を起源とする)が多く見つかり、この辺りは、朝鮮半島からの渡来人による鍛冶技術集団の集落遺跡だったことが推定されています。
それを踏まえ、今回見つかった出土品などを府の担当者のレクチャーもいただきながら見てみると、非常に興味深いものがあります。
それは、サヌカイト(二上山より?)、縄文・弥生時代の土器の一部、古墳時代以降の須恵器・土師器などが多く見つかり、朝鮮半島からやってきたと思われる馬の歯など、これらの各時代の遺物がひとまとめに出土したということです。
なぜこのような長い年月の遺跡が多く出てきたのか不思議に思いお聞きすると、ほとんど同じ高さの土地から出てきているそうです。この地域の下を流れていた旧大和川は度々氾濫していたことで有名ですが、もしそのようなことがあれば、多くのものは流されたり、別の土砂が重なっているはず。
しかし、「この一帯は旧大和川より高い位置にあり、(縄文後期から古墳時代という500年以上の年月のなかで)、この地域にそのような土砂の大きな変動のなかったことが、様々な時代の遺物の出土した位置(同じ高さ)によってわかる」と、お聞きし、納得した次第です。
ということは、非常に住みやすい土地だったのでしょうか。古来から居住地として最適だったこの地域。長年の時を経ても、今なお残る自然に囲まれた大切な場所なのだと、つくづく感じさせられました。